長期にわたる低落の怖れ

   ---将来を決めるのは国民の意志---

名古屋大学 客員教授 経済学博士 水谷研治

政治が担う本来の役割

経済は自由にすることが好ましいとの考え方がある。自由競争の下で成果が自分のものになれば、それが刺激となって、人びとが向上を目指して努力するであろう。その結果として、国全体の経済が発展し、その恩恵を国民が受け取ることができると考えられるからである。

その一方で各種の要因で競争に参加できない人々がいる。人の能力差は大きく、努力では越えられない違いもある。そのために自由競争の結果として成果を満喫する人々がいる一方、悲哀を味わう人が出てくる。それを放置しては人間社会として好ましいとは言えない。

安定した幸せな社会ために政治の役割がある。誰に政治を任せるかは難しい問題である。任せる以上は政治家の決定には従わなければならない。しかし政治家は自由勝手に政策を決めて実行することができるわけではない。国民として気に食わなければ政治家を変えることができるからである。政治家が政治家として活躍し続けるためには国民の意向に沿った政策を実施しなければならない。当然ながら人びとの評価が気になる。

将来のことを考えれば目先の苦労を耐え忍ぶことが必要である。分かっていても、それは難しい。今の犠牲が本当に自分にとって将来の幸せに繋がるとは限らない。国全体として必要であっても、そのために個人として犠牲を払うことを国民が嫌がる。そこを説得して国全体として必要なことを実行することが政治家として重要である。分かっていても現実には選挙があるために政治家としては国民の人気取りを重視せざるをえない。国民の民度が政治の水準を決めると言われる理由がある。

政治を悪用する国民

多くの人々が望むのは、それぞれの人の目先の課題の解決である。痒い所へ手を延べてくれる政治が重要と言われる。ところがそれを目指すと膨大な人手と資金が必要になる。それを負担するのが国民であるため、国民の政治に対する要望も限界がある。それを回避するためには負担が自分に掛かってこないような政策が必要であり、減税が要請される。それらが達成されると限界が無くなり、その結果として国民の要望は高まる一方になりかねない。

多くの国民の身近な差し迫った課題に対処することに政治が力を入れるため、国として長期的な重要問題が軽視されることが心配である。本来は身近なことは個人に任せて、国にしかできない長期的で根源的な問題に政策の重点を置くべきである。そのためには現在の国民が相応の負担をしなければならない。それが重要であり我々の責務であるとの考え方が薄れていくことが恐ろしい。特に政治情勢が安定しないと本来必要とされる長期的で基本的な施策を断行することが難しく、政治が目先の人気取り政策に注力することになりがちである。

働かず浪費に熱中する日本人

国民がそのようにして政治を利用するようになると、安易な生き方が身に付き努力を軽んじるようになる。目先の豊かさを享受することを追い求め、豊かさを創り出すための努力をしなくなる。それでも特段の不都合は生じない。モノが溢れる豊かな経済社会であるためである。

長年にわたる国民の努力の結果として作り上げた豊かさを活用するためには国民が消費を増やし浪費をすることが奨励される。それに補助金が付けられるのは、その典型である。超過勤務など長時間にわたり働くことが指弾される。

このような事態が続いているため、国民性が変わりつつあるように思われる。勤勉に働き、将来を見据えて堅実に生活する日本人の特性が、いつの間にか変質し、働かない日本人、遊びと浪費に明け暮れる日本人が増えることになりそうである。

通常そのような行動は個人でも企業でも国でも資金が不足して続けられなくなり、限界を迎える。幸か不幸か。わが国の場合には膨大な蓄積があるため、それを食い潰すまで何十年も限界が来ない。そのために国の経済力は今後も低下を続けることになると考えられる。それで良いのであろうか。将来のことを考えて根本から方向を転換する必要がある。

---時局12月号への寄稿P34-35 (2022.11.10)から---

 水谷研治の経済展望/問題点と対策39

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