1945年敗戦前後

 水谷研治(名大客員教授)

1 人手不足

 194112月に始まった強大国アメリカ、イギリスをはじめ多くの国との大戦争は、その前から始まっていた中国との戦争の続きであった。

総力を挙げた必死の戦争であった。戦闘に参加したのは男達である。若者ばかりでは不足する。中年も動員された。

男性がいなくなると重要な工場も生産ができなくなる。国家総動員で対応した。14歳から25歳までの女子挺身隊が慣れない生産に携わった。

国のために懸命に働いた女子挺身隊を従軍慰安婦と同一視することは絶対に許せない。

12歳以上は労働力として働いた。中学生・女学生が軍需工場で働き、アメリカ空軍の爆撃で大勢が亡くなった。愛知時計電機や豊川の海軍工廠など多くの例がある。

 人手不足はあらゆる部門に及んだ。4年生の小学生が時々農業の手伝いに駆り出された。それが次第に増えていった。6年生になると授業を止めて農作業に出かけることが多くなった。

 勉強が嫌いな小生は大歓迎であった。田植えから田の草取り、稲刈り、脱穀まで一通りの仕事をやった。もちろん満足にできたはずがない。しかし上背があり、体力が強かったため、このような力仕事は得意であった。

2 食糧増産

 食糧難は戦後さらに酷くなった。あらゆる空地を利用した。小学校(西枇杷島国民学校)の運動場を畑にした。

 踏み固めた運動場を掘ることは難儀であった。鍬では歯が立たない。鶴嘴が必要であった。しかし鶴嘴はなかった。

鉄は軍艦、戦車、大砲など武器を作るために使い果たしており、家庭で使うための道具などは新しく作れるはずもなく、古い粗末な道具を使う以外になかった。

戦後2年ほどしたところで、今度は畑にした運動場を復活させることになった。明倫中学校の広大な運動場を学年別に割り付けて、畝を平に均し運動場に作り直した。

この時も体力のあった小生は活躍することができた。勉強がだめであった分、取り返せた気持ちであった。

 食べ物がないことは悲しい。自分で作り出さなくてはならない。

 畑が欲しかった。畑を作った。セメント置き場へ土を運び、盛り上げて畝を作った。土は重い。それを運ぶ車はなく、手で運ぶ以外にない。

 小学生としては本当に大変であった。雑木林を切り開いて開墾をする話がある。木の根を掘り起こして畑にすることの苦労は想像を絶する。

 栄養補給の意味もあり、秋になると蝗取りに田圃へ出かけた。それを茹でて干し、粉にしていろいろな食糧に振りかけて食べた。

 不器用な小生にできることは少なかったが、できる限りの手助けに忙しかった。

3 戦争の傷跡

空襲に備えて防空頭巾が作られた。明倫中学2年生の兄が学徒動員で働いていた大隈鉄工所で空襲に会い、油脂の欠片で防空頭巾を焼け焦がせて帰宅した。分厚い防空頭巾のおかげで無事だった。

名古屋市の郊外に居て、いつ空襲に遭うかわからない。近所に焼夷弾が落ち、小学校の一部も燃え落ちた。父の大反対を押し切って、大切な荷物を少しずつ四日市市西町の蔵へ運んだ。

幸いにも我が家は空襲に遭わずに済んだものの、四日市は一晩の空襲で壊滅した。父の家も母方の家も焼失した。

焼け跡は惨めである。何も残っていない。そこに再び人が住むことができるとは到底思えなかった。

 815日は永遠に忘れない。隣の家に大勢が集まって玉音放送を聞いた。しかし小生には意味は分からなかった。

裏の三菱航空機へ勤めていた大勢の人々が一斉に帰って行った。誰も無言であった。

学童達が小学校へ集まった。いつも元気な担任の一柳先生が教室で号泣した。どうすればよいか誰も分からなかった。

それまでアメリカに勝つことだけを目標にして頑張ってきた我々にとって、その目標を一挙に無くした場合の虚無感はすごい。

しかし生きていかなければならない。目先の自分の問題に集中する以外にない。それだけで良いと言われるようになった。

4 国のために犠牲になる

 「戦争はすべて悪である」との考え方が浸透していった。戦争に携わった人が悪へ加担したように言われ続けた。

 どこの国でも、国家のために犠牲になった人に対しては手厚く弔い、最高の敬意を払う。我が国は戦後、その常識をなくしてしまった。

 日本の戦死者は何の貢献もしなかったのであろうか?

 英霊は国の将来、残る国民の幸せを願って亡くなったのではないか。

国のために、将来のために、という気持ちは多くの国民に受け継がれていたように思われる。それこそ世界の歴史に残る戦後の大発展の基本となったのではなかろうか。

社会のために犠牲になる人がなくて社会は成り立たない。一時的には良い結果が出る場合があるにしても永続性がない。発展が続かない。

 将来の国民のことを考えることは、現在の我々の重要な責務である。

 我々が強調するべきことは、多くの周りの人々、全国民のことであり、将来の全体の繁栄であるべきである。

 この考え方が受け継がれれば、どのような事態になっても恐れることはない。困難を乗り越え、遠い将来の発展を目指して、雄々しく立ち向かうことができるからである。

 

---キタン新聞第757号(2015.7.20)への寄稿「1945年前後の体験記 第1回」から---

 

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