幾山河 名古屋大学経済学部1956年卒業生・喜寿記念文集P193-200 2010.4.1

「一ドル一五〇円」

                                (塩野谷ゼミ)

  一九八六年の新語流行語大賞で「一ドル一五〇円」が取り上げられた。

二五〇円程度であったドル相場が一九八五年九月のプラザ合意を契機として一挙に一五〇円へ急落し、急激な円高で日本経済が奈落の底へと転落した。誰もが夢想もしなかった、そのようなドル相場の急落とその影響を予想して当てた、ただ一人のエコノミストとして小生が一躍有名になった。

その経緯について書き残すべきであるとの親友宮城晴明君と佐藤治君の強いお勧めにより、臆面もなく本文を作成することにした。

 

一九八五年の正月休み、アメリカの経済を綿密に分析してみた。その結果、アメリカが従来どおりの経済を続けることは不可能であるとの結論に達した。

貿易赤字が急増しており、破綻を免れることができなくなるからである。膨大な赤字を解消するためには、もはやドル相場を大幅に引き下げるしか方法はない。

二五〇円程度で推移していたドル相場がどこまで下がれば均衡に達するかをいろいろと試算してみた。その結論が一ドル一五〇円であった。

そうなると、一ドル二五〇円を前提として成り立っていた日本経済は破滅的な打撃を受ける。輸出産業が壊滅し、その影響はあらゆる部門へ及ぶ。多くの産業が成り立たなくなり、多くの企業が倒産し、失業が急増する。

都市銀行である東海銀行の調査部長は年初の講演に忙しい。一月、二月には毎年三〇回から四〇回「今年の経済見通し」の講演を行う。講演会でこの話をして、景気急落の用心をする必要があると力説した。

その内容をより広く知ってもらうために東海銀行の調査月報(四月号)に載せた。重大な警告を発しているのであるから、当然に大きな反響が起きると思っていた。

ところが反応がない。そこで「一ドル一五〇円の世界」がどれほど深刻な経済情勢になるかをパンフレットにして七月に日本銀行の記者クラブへ説明に行った。

説明を終えると、某記者からたしなめられた。「都市銀行の調査部長の行うべきことは現在二五〇円近くにあるドル相場が二五五円になるか二四五円になるかの予想であり、一五〇円になるなどと荒唐無稽なことを言うべきではない。」

それでも翌日の朝刊には各紙とも大きく掲載してくれた。しかし、それでお終いであった。

九月半ば、当時NHKラジオで隔週に夕方の経済解説を担当していた。そこで「一ドルが一五〇円に急落する可能性があり、その時、日本経済が大不況になるため、用心が必要である」との話をした。それを車の中で聞いていた有力な人から大変なことを言うと反応があった。

その直ぐ後、運命の一九八五年九月二〇日が来た。ニューヨークのプラザホテルで極秘のうちに開かれた先進主要国の財務大臣、中央銀行総裁会議において、ドル相場の引き下げが決められた。いわゆるプラザ合意である。

翌日、日本は秋分の日で休日であり、一日遅れで東京外国為替市場は世界の動きに追随した。ドル相場は急落に次ぐ急落となり、九月末は一挙に二二〇円を割り込んだ。

しかし一〇月に入るとドル相場は反騰し、それに対して日銀は懸命にドルを売り浴びせて対抗した。相場は一進一退を繰り返したものの、先進国の連携した強力な施策が功を奏してドル相場は本格的に下がり始めた。そして一九八五年末には二〇〇円に至った。

年を越えてもドル相場は下落を続け、ついに一五〇円台へと突入したのである。

一九八五年一〇月に毎日新聞社の週刊エコノミストから執筆の依頼があった。年初からの小生の動きを覚えていたためであろう。一二月一〇日号で「一段の円高で摩擦解消を――一ドル一五〇円に備えよ」の記事が掲載された。

ドルの急落で騒然とする中、それを予想した男として、テレビや新聞雑誌など各所で採り上げられるようになった。

ただし、小生は一貫してドル相場を予想できなかったと主張している。その可能性を示唆しただけであり、何時頃実現するかを示さなければ、予想したことにならないからである。

ところが世間はそれを認めてくれない。予想屋としか見てくれないことに小生は不満であった。

予測したのは事実である。その背景には綿密な経済分析があったことを力説しても、誰も聞いてくれなかった。

その前後、東海銀行の調査月報では、次から次へと大論文を発表している。大恐慌との類似性から、その恐れがあることや、第二次関東大震災が起きた場合の被害から遷都の必要性(名古屋遷都論として第二次遷都論に火をつけたと言われる)などである。それらは優秀な部下であった調査部員が作り上げた傑作である。

長期的な観点からの調査分析に力点を置いていたが、短期的な景気予測の面でも抜群の成績を残している。毎年行われる景気予測で四年間連続して全国一位になっていた。それは細部にわたる経済情勢を綿密に分析した結果である。

それには長年にわたる経済実態の把握が役立っている。営業活動が長く、東海銀行で清水支店長、秋葉原支店長、八重洲支店長、ニューヨーク支店長として内外の多彩な企業と経営者から実地に多くの教訓を受けてきた経験が他のエコノミストとは違っていた。

経済政策に関しては若い頃の経済企画庁への出向が効いている。そこで一役人としてではあるが、普通の役人にはできない経験をしている。たとえば経済閣僚懇談会へ陪席するといった想像ができないような体験があった。(現在も経済企画庁への出向者のOB会である経企同友会の代表幹事の一人となっている。)

若くしてニューヨークのシティ銀行へ研修のために出向したことは、全盛期のアメリカを体験することになり、後のニューヨーク支店長として南北アメリカを統括した経験と共に貴重な教訓を得る機会になっていた。

この間、一貫して持ち続けた小生の課題は「経済変動論」である。卒業論文「加速度原理」はヒックスの景気循環論に始まり、サムエルソン、ハロッドからグッドウィンに至る路線上に展開したものである。

その後も長期的な観点で経済の変動を追及していた。同時に銀行マンとして金融について一家言持つようになった。一九七二年、東洋経済新報社から出版した著書「企業金融論の基礎」がその一例である。

金融の特殊性を生かすと、異常な経済状態を作り出すことができる。しかし、それがいつかは破綻して大変動を引き起こす。そのようなことが繰り返し起きている。その理論を現実に適応して分析し、将来を予想していたのである。

そのようなことを語る機会はまったくなかった。そこで考えた。予測の背景にある経済理論で博士号を取ろうとしたのである。

ところが、それが極めて難しいことに後で気がついた。ほとんど不可能であることが判明したからである。それでも取り掛かったために途中で止めるわけにはいかなかった。

一九八九年三月、名古屋大学で経済学博士号を取得することができた。経済学部始まって以来三〇人目の論文博士であった。博士論文は「債務循環に基づく経済の長期波動―――経済発展における金融の役割とその限界―――」である。(なお、その後は経済学博士号の取得がかなり容易になって今日に至っている。)

それを現実に当てはめれば、次のようなことになる。借金を積み重ねれば経済水準を長く大きく引き上げることができる。しかしいずれ破綻が来て大きく経済水準が下がる。この考え方が二〇〇八年以降の経済破綻を予想したと言われることにつながっている。

銀行界で経済学博士号を持っているのは当時二人だった。もう一人の日銀マンが退職して小生一人になってしまった。しばらくして、もう一人の博士が誕生した。それが東海銀行の調査部岡次長で小生の部下である。東海銀行は変わった銀行だとさんざん冷やかされることになった。

都市銀行・長期信用銀行の副頭取会がある。東海銀行では当時副頭取が空席となっていたため、東京駐在の責任者であった専務取締役の小生が出席していた。格下であるにもかかわらず、随分優遇していただいたことが思い出される。

その後、東海総合研究所の社長、会長、理事長を経て、一九九九年四月中京大学の大学院教授になった。二〇〇八年四月から名古屋キャンパスが創設されたのを機に東京福祉大学の大学院教授に就任し、今日に至っている。なお中京大学からは名誉教授の称号を授与され、心から感謝している。

多くの優秀な学友に先立たれ、余命いくばくもなくなった今日、心配なのは将来の日本である。このままでは国家の財政破綻は避けられない。

その時、国民生活は悲惨なことになるであろう。深刻なデフレの今日では想像もできないようなインフレ経済に転換すると思われる。悪性インフレのために国民の生活が苦しくなり、毎年、経済水準が下降していくことが心配である。

それを避けるためには、現在の我々が犠牲を払う以外にない。それを長年にわたり力説してきたが、非力のために何の効果も発揮できていない。そして、もはや絶望的になってきた。

しかし諦めるわけにはいかない。不景気論者として、ますます評判が悪くなるのを覚悟のうえで、性懲りもなく財政再建のための大増税の必要性を叫び、そのための準備を呼びかけている毎日である。

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