焼夷弾で焼けた校舎の一部

                       中京大学 大学院教授       経済学博士 

                                            (19463月 西枇杷島小学校卒)

  62年前の戦争末期、食糧が乏しくなり、少しでも食料を作り出そうと、空き地があれば、豆を蒔き、南瓜を植えた。学校の運動場を全部耕して、薩摩芋を植えた。

  成年男子は、ほとんど戦争に参加した。働き手が足りなくなり、我々小学校の五年生、六年生が農家の手伝いのため、毎日のように出かけた。田植えをし、稲を刈り、その跡の土起こしをして麦を蒔き、じゃが芋を植えた。

アメリカ軍の空襲が激しくなり、空襲警報のつど防空頭巾を被って、学校から急いで帰宅しなければならなかった。焼夷弾を落とされて、西枇杷島小学校の工作室棟が全焼した。軍馬の飼料にと、全校の児童が草を刈り集め、工作室に積み上げていた干草が燃え上がり、火の粉が夜空を焦がした。

  戦争に勝つために、皆が必死であった。国のために一人一人が犠牲を払ったのである。その気持ちは尊いものであり、戦後の復興に大きな力になった。世界の歴史に残る日本経済の奇跡的な復興と発展の基になったと考えられるからである。

  周りのため国のために犠牲になる気持ちが国民にあるかぎり、国家社会がどれほど悲惨な事態になっても、立ち直り、再発展を期待することができる。逆に、もし国民にその考え方がなくなれば、どれほど繁栄を極めていても、将来は暗くならざるをえない。

  我々は、より良い国を目指し、周りのために自分を犠牲にできる人を育てる必要がある。

―――西枇杷島小学校100周年記念誌への寄稿P37(20061123日)から―――

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